ID野球の申し子とも言われ、打者としてはプロ入り2年目に首位打者を獲得し、捕手としては強肩と頭脳を生かした野球で、攻守ともにチームを牽引。5度のリーグ優勝と4度の日本一へと導いた、古田 敦也の特集です。
1965年、兵庫県生まれ。野球をはじめた頃から現在まで一貫して守備はキャッチャー。兵庫県立川西明峰高校卒業後、立命館大学経営学部に進学。同大学野球部では、日本代表選手に選ばれるなど活躍。卒業後はトヨタ自動車へ就職し、1988年、ソウルオリンピックに日本代表選手として出場。銀メダルを獲得した。1990年、ドラフト2位でヤクルトスワローズに入団。野村克也監督から才能を認められ、1年目のルーキーイヤーからレギュラーを獲得し、オールスターゲームにも出場。1991年、落合博満選手とのデッドヒートの末、3割4分の打率で首位打者に。これまでにリーグ優勝5回、日本一4回を経験。1997年、2001年と日本シリーズのMVPに選ばれている。2005年、社会人出身というハンディを背負いながら、2000本安打、1000得点を達成。2006年の昨シーズンより、選手兼監督として東京ヤクルトスワローズを率い、2007年11月21日付で任意引退が公示され、ヤクルトを退団。
古田の出現により捕手の重要性がクローズアップされ、インサイドワークや統率力でヤクルト黄金時代を築く大きな原動力となりました。
ヤクルトが優勝した年は必ず古田が活躍し、古田が振るわないときは決まってヤクルトが低迷したことからもそれが言えます。
捕手としてはプロ野球史上最多の通算8回のシーズン打率3割を記録した。守備負担の大きい捕手を務めながら残した通算打率.294は、7000打数以上の選手中では歴代9位に位置する。プロ2年目の1991年には首位打者を獲得しており、同年の打率.3398は2012年に阿部慎之助が.3405を記録するまでは2リーグ制以降では捕手のシーズン打率の歴代最高記録だった。
持ち前の強肩に加え、送球前の動作や、捕球してから即座に送球動作へと移る技術、正確で素早く力強いスローイング等を徹底的に磨いた。1991年に12人連続盗塁阻止を記録し(岡田彰布に許して記録が止まった。岡田の盗塁はその年その一個)、1993年にはシーズン盗塁阻止率.644という日本記録を残した。1993年シーズンに加えて2000年シーズンにも盗塁阻止率6割以上の数字を残しており、キャリアでは盗塁阻止率リーグ1位を通算10回記録した。入団から13年連続で盗塁阻止率4割以上を残すなど、非常に高水準で安定した阻止率を長年維持しており、通算の盗塁阻止率でも.462という日本記録を持っている。
ミットを動かさずにボールと判定されてもおかしくない球をストライクに見せるキャッチング技術も持っていた。矢野燿大は「古田さんのキャッチングは、手で捕っているというよりも下半身で捕られているように見えるんです。右バッターのアウトサイドにボールが来るとする。そうすると、古田さんの場合、上半身の体勢はそのままで、下半身だけがアウトサイドに寄っていくんです。で、キャッチングの瞬間、フッと身体が内に寄る。手じゃなくて身体が寄るんです。低めのボールにしてもそう。もともと古田さんって、ぺちゃんって座れるじゃないですか。僕なんかだと股関節が固いから、低めに来たら手でしか上げられない。でも、古田さんは重心で上げられるんですよ。ベンチから、つまり、横から見ていたらようわかります。(中略)だから、審判にも絶対にストライクに見えるんです。僕らみたいに手をちょこっと動かしたりするのは審判にもバレバレなんですけど、古田さんはインコースだろうがアウトコースだろうが、下半身を動かして身体の中心で捕るんで、全部ストライクに見えるんですよね」と語っている
日本の野球界には「眼鏡を掛けた捕手は大成しない」という固定観念があり、古田も眼鏡を着用していた(乱視がひどく、当時のコンタクトレンズでは自身の眼球に合わなかったため、止む無く眼鏡を着用していた)ことから、大学時代には首位打者を獲得しながらドラフト指名から漏れ、社会人からプロ入りする際にも「最大の欠点」と評された。しかし、プロ入り後は野村監督によるマンツーマンの指導などで日本球界を代表する捕手となった。
古田敦也のキャッチングや、スローイングなどそそれらのHow-toを各記事でご紹介しています。
草野球のサイトは野球をテーマにしたメディアです。
草野球のHow-to、ルールなど野球の基本にまつわるお話や、ホームページの話を中心に、野球を楽しむすべての方を対象に記事を配信しています。