90年代の近鉄バファローズは、大阪ドームへの本拠地移動や野茂英雄のトルネード旋風が象徴的な出来事ですが、順位は決して芳しくなく徐々に低迷期へと入っていった年代です。
その中でも、ブライアントや中村紀洋、タフィ・ローズのいてまえ打線を担った個性派選手が続々登場した年代でもあります。

今回は、1990年代の近鉄バファローズについて各年度毎の出来事と共にご紹介します。
年度 | 順位 | 試合数 | 勝利 | 敗北 | 引分 | 勝率 | 監督 |
1990 | 3 | 130 | 67 | 60 | 3 | .528 | 仰木彬 |
1991 | 2 | 130 | 77 | 48 | 5 | .616 | 仰木彬 |
1992 | 2 | 130 | 74 | 50 | 6 | .597 | 仰木彬 |
1993 | 4 | 130 | 66 | 59 | 5 | .528 | 鈴木啓示 |
1994 | 3 | 130 | 68 | 59 | 3 | .535 | 鈴木啓示 |
1995 | 6 | 130 | 49 | 78 | 3 | .386 | 鈴木啓示 |
1996 | 4 | 130 | 62 | 67 | 1 | .481 | 佐々木恭介 |
1997 | 3 | 135 | 68 | 63 | 4 | .519 | 佐々木恭介 |
1998 | 5 | 135 | 66 | 67 | 2 | .496 | 佐々木恭介 |
1999 | 6 | 135 | 54 | 77 | 4 | .412 | 佐々木恭介 |
1990年の近鉄バファローズ
1990年は、開幕2試合目から9連敗と先発陣が総崩れを起こし、最下位脱出まで1カ月を要しながら、新人の野茂英雄氏この年の投手タイトルを獲得しました。
また、打線では大石第大二郎、石井浩郎らが頑張りを見せ、Aクラス3位を確保しました。
野茂英雄の戦列デビュー
野茂英雄氏は、独特のトルネード投法からの快速球とフォークでで1年目から噂に違わぬ剛腕ぶりで新人王、最多勝、最多奪三振、沢村賞など投手部門の獲得し、MLBへ移籍するまでの在籍5年の間に1試合17奪三振、6試合連続2桁奪三振、史上最速での通算1000奪三振など、数々の記録と鮮烈な記憶を残しました。

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1991年の近鉄バファローズ
1991年の5月8日時点で西武に9.5ゲーム差をつけられながら、阿波野秀幸氏の二軍落ちにも野茂、小野和義、佐々木修らが踏ん張り、抑えの赤堀元之も台頭。
そしてブライアントが30試合で15本塁打と打ちまくり首位西武を猛追しましたが、6月以降次々に主力が離脱しながらも、最終的には西武に及ばず2位となりました。
この年は、2年目のジンクスを物ともしない野茂英雄氏が2年連続最多勝を獲得。
そして、外国人選手のトレーバーが打点王に輝きました。
トレーバー
90年から2年間在籍したトレーバーは、太めの体型であごひげを蓄えた愛嬌のある風貌で、来日した1990年には打率.303、24本塁打、92打点と存在感を示しました。
1991年は打率こそ.272と落ちましたが、29本塁打と92打点で打点王を獲得し、ベストナインとゴールデングラブ賞に選ばれましたが、その年のオフに球団との交渉が決裂し、同年限りで退団となりました。
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1992年の近鉄バファローズ
1992年は、前半不振だった野茂英雄氏は、後半巻き返して18勝で3年連続最多勝を獲得しました。
さらに赤堀元之が防御率と最優秀教援投手を獲得し、打線も石井浩郎・ブライアントが豪快なフルスイングで気を吐き、2位となりこの年限りで仰木彬監督が退任しました。
1992年ドラフト1位・小池秀郎選手
この年のドラフト会議で1位指名を受けた小池秀郎選手は、アジア大学時代に大学ナンバー1と注目された左投げ左打ちの投手で、1990年にシーズン111奪三振を記録、大学選手権でチームを優勝に導きました。
大学通算成績は28勝14敗、防御率1.45で、この1990年のドラフト会議では近鉄バファローズを含む8球団からドラフト1位指名を受け、抽選でロッテが交渉権を得ましたが、小池秀郎選手は入団を拒否し社会人野球へと進みました。
そして、1992年のドラフトで再び近鉄から1位指名を受け入団し、1997年にはパ・リーグの最多勝投手になりました。

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1993年の近鉄バファローズ
1993年には生え抜きの大エース・鈴木啓示監督が就任し、ブライアントが本塁打、打点の2冠。
大石が6年ぶりの盗塁王、野茂が4年連続の最多勝、赤堀が最優秀救接投手を獲得するなど選手個々は大きく躍動しましたが、投打がかみ合わず4位になりました。

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1994年の近鉄バファローズ
1994年は6月16日の時点で16ゲーム差の最下位でしたが、そこから一気に首位に立ちながら終盤は大きく失速し、オリックスと同率の2位となり浮き沈みの激しいシーズンでした。
この年のオフには野茂英雄、阿波野秀幸、吉井理人、金村義明の主力が近鉄バファローズを離れていった年です。

最下位からの快進撃
1994年は開幕から2試合連続でクローザーの赤堀元之が崩れ、そのまま6月6日には首位·西武と16ゲーム差の最下位となり、当時のオーナー上山善紀氏が不振の原因究明に自ら乗り出す騒ぎとなりました。
ですが、6月中旬以降一気にチームの雰囲気が変わり7連勝、7月に入っても5連勝などで着実に順位を上げ、後半戦に入ってからも8日から8月10日まで球団史上最多の18連勝で首位に立ち、16ゲーム差からの首位浮上は史上最大差の逆転でした。
ですが、その後終盤にかけて失速し、オリックスとの同率2位に終わりました。
野茂英雄の海外移籍
野茂英雄氏は、1990年に入団し開幕投手も務め、名実ともにエースとしてチームの支柱となっていましたが、迎えた1994年は、開幕前から右肩痛を抱えつつもエースとして投げ続け、成績が奮わずチームもそのまま優勝争いから脱落していきました。
大幅な年俸ダウンが予想されたオフの契約更改で、複数年契約と代理人制度を希望したものの、球団はこれを拒否し大もめになり、球団に任意引退の処置を下されたことでメジャー挑戦を表明し、ロサンゼルス・ドジャースへ移籍しました。

1995年の近鉄バファローズ
1995年は石井、ブライアントの故障もあって出遅れ、8年ぶりの最下位になった年です。
そして、この年のオフにはブライアントが退団しました。
福留孝介氏のドラフト
1995年のドラフト会議では、「紅白のふんどしを締めて勝負に臨んだ」と声を弾ませた佐々木監督で、近鉄も1位指名をしたPL学園高の福留孝介選手に当時史上最多の7球団が競合し、その当たりクジを引き当てました。
ですが、福留孝介選手は入団を拒否し、日本生命へ進みました。

1996年の近鉄バファローズ
1996年は前年退任した鈴木啓示から変わった佐々木恭平新監督の下、2試合連続完封勝利で、プロ野球タイ記録の開幕5イニング連続無失点と華々しいスタートを切りましたが、4位に終わりました。
石井浩郎のトレード
この年のオフ、打点王にも輝き中心打者として活躍していた石井浩郎選手が巨人の2選手とトレードされ双方のファンは沸き立ちました。
相手として巨人の石毛博史投手と吉岡雄二内野手の名が挙がり、近鉄と巨人の間で1:2のトレードが成立しました。

1997年の近鉄バファローズ
大阪ドーム元年となった1997年も浮き沈みの激しいシーズンでが、最終的には3位に食い込み、8連勝もあった小池秀郎選手が15勝で最多勝。
また打線では、ローズ、クラークの助っ人2人が活躍しました。
大阪ドーム元年
藤井寺球場から大阪ドームへの本拠地移転を機にユニフォームや球団旗などを大きく一新し、3万6000人を超えて収容のスタジアムには、球団新となる186万6000人のファンが観戦に訪れました。
そして、ユニフォームは赤と紺色を引き続きメインカラーとしつつ、ビジター用は赤色と紺色の二色を併用し、中でも赤色のユニフォーム特徴的な印象を残しました。

1998年の近鉄バファローズ
1998年の投手陣で守護神の大塚晶文が当時のパ·リーグ新セーブで最優秀救援投手となり、打者ではクラークが打率3位、本塁打3位、打点2位に加えて、4二塁打のプロ野球記録をマークしましたが、4位になりました。
日本プロ野球界初のナックルボーラー
日本にもナックルボールを投げる投手はいましたが、あくまでも変化球のひとつとして扱っているに過ぎず、投球の大部分がナックルボールのマットソン選手を「日本プロ野球界初のナックルボーラー」であると評価する声もあります。
マットソン選手自身も、ナックルは「投げた自分もボールがどこに行くかわからない」と語るボールで、海風がバックネットに跳ね返って不規則な変化を倍増させる千葉マリンスタジアムでの登板を得意としました。
この年の1998年はチーム最多の9勝を記録し、相手打者が打席の後方に立ちひたすらストレートを待つ作戦に切り替えたところ、変化球の大部分が見極められてしまうようになり、5勝に終わった1999年のシーズン終了後に解雇されました。

1999年の近鉄バファローズ
1999年はローズが本塁打、打点の2冠。
そして、中村紀洋もいてまえ打線の中軸として活躍しましたが、故障者が続出した投手陣が崩壊し、リーグワーストの防御率4.54で順位も最下位に沈むと、佐々木監督は退任しました。
大阪近鉄バファローズへのチーム名変更
球団創設50周年となった1999年から域密着型の球団になるべく、「大阪近鉄バファローズ」に球団名を変更。
そして、球団名の変更に伴い、ビジター用ユニフォームは長く親しまれた「Kintetsu」から「Osaka」にロゴが変更されました。